2017
10.05

シリア難民〕ドイツへの決死の脱出(1)「私はなぜ家族と国境を越えたのか」

news, シリア

内戦の戦火が続くシリア。数百万にもおよぶ人びとが国外へ脱出した。2015年9月、シリア難民のアイランくん(3)の遺体がトルコの海岸に打ち上げられている写真は世界中に衝撃を与えた。彼はシリア北西部のコバニ出身。家族とともにトルコからギリシャへボートで渡ろうとしたが沈没した。たくさんの難民が同じように海で命を落としている。昨年10月、アジアプレスとのインタビューで武装組織イスラム国(IS)台頭の背景について語ってくれたアル・バヤン紙の元特派員フェルハッド・ヘンミ記者(31)も同じ9月、家族3人とともにコバニからドイツへと逃れた。なぜ彼は欧州を目指したのか、どのようにドイツまでたどり着いたのか。電話のインタビュー記事を、今回、アーカイブとして掲載する。【聞き手:玉本英子】

シリア北部コバニはISに包囲され、一時、町の半分近くまで制圧された。住民のほとんどは隣国トルコへ脱出。町に残ったクルド組織の防衛地区に毎日ISから砲弾が撃ち込まれていた。建物の向こうの丘はすべてIS支配地域だ。(2014年12月撮影・玉本英子)

◆避難先トルコからコバニに戻るも、町は破壊されISの包囲は続いていた
私はコバニ出身です。ダマスカス大学を出てから、シリア各地で取材活動をしてきましたが、戦闘激化で、おととしトルコ南部に一時拠点を移しました。コバニは昨年9月、ISと地元クルド組織との間で激しい戦闘が始まりました。しかし今年の1月末にISが市内から一時撤収、戦闘が下火になったことを聞き、私は家族とともに故郷に戻ることにしました。
町に足を踏み入れると、ISが撃ち込んだ砲弾や米軍などの空爆で、なにもかも瓦礫の山になっていました。私の家も一部が損壊、家族が住める状態ではありませんでした。それでも故郷で生活を始めたかったのですが、町の包囲は続いています。またISが戻ってくるかもしれない、という恐怖心に襲われました。私ひとりならともかく、子どもたちをここに住まわせることはできないと判断しました。私は妻と話し合い、今度はトルコへの一時避難ではなく、親戚のいるドイツに渡る覚悟を決めました。5歳と2歳半の幼い娘も一緒です。

ISの砲弾で破壊された住宅。2014年9月末には、町がISにより陥落寸前になったため、地元クルド側は苦渋の決断をし、米軍と有志連合に要請して戦闘機がIS陣地に空爆を開始した。町は砲弾と爆撃で瓦礫と化した。(2014年12月コバニ市内で撮影・玉本英子)

◆幼な子抱え、シリアから再びトルコへ、そして海を目指す
トルコ政府はシリア難民がやってくることは歓迎しませんが、逆にシリアに戻ることについては、むしろ歓迎しています。トルコからシリアへ戻るのは身分証明書さえ見せれば簡単でした。しかし、シリアからトルコへ渡るのは基本的に、非合法で行くしかありません。国境は草原が広がっているだけですが、トルコ軍の埋設した地雷もあるため、素人の私たちだけで越えることはできません。密輸や、ひそかに人の行き来を手配するブローカーにお金を払い、彼らの案内で鉄条網を切断し、闇夜の中、私と家族、知人の計5人で国境を越えました。みんなそうやって国境を越えます。
そこにはトルコの警備隊が目を光らせており、発砲される危険もありました。ブローカーが自分たちを裏切るかもしれない、という考えもよぎりました。少しの服と身の回り品が入ったカバンを肩にかけ、娘を抱えながら体の震えが止まりませんでした。たった数百メートルの国境地域を抜けるのに4時間もかかりました。なんとかトルコ側に入った私たち家族は、バスなどを乗り継ぎ、3日間かけてトルコ西部の大都市イズミールにたどり着きました。そこには別のブローカーが私たちを待っていました。(つづく)

トルコ国境から見たシリア・コバニ。トルコ側には鉄条網が張り巡らされていた。とくに銀色の鉄条網はカッターのような鋭い刃先。密入国を防ぐため鉄条網の先にはトルコ軍が埋めた地雷があるほか、水を撒いて泥地帯にして歩けないようにしている場所もある。(2014年12月撮影・玉本英子)