2017
07.23

「リッチスタン」とは何か(30)

Topic, リッチスタン

日本と世界の情報ブログより   2017-07-16 11:48:19
(30)イギリスEU離脱の真相
 イギリスと言う名の国は存在しない。正式には「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」と言う。略語で「連合王国」とし「U・K」と表記する。国家としてイギリスと表記するのは日本だけである。16世紀の南蛮人、紅毛人から始まる長崎の出島の歴史がその名を固定化した。オランダ語の「エゲレス」がイギリスになり、漢字で「英吉利」を宛てて「英国」となった。
 2016年6月23日、イギリスでEU離脱を問う国民投票が行われ、離脱票が多勢になることが確実になった。世界中の経済・政治の専門家は残留結果になると予想していたが、最終得票差は、離脱派が51・9%で残留派が48・1%となった。
 イギリス離脱の衝撃を最も受けたのはEUである。EU第2の経済国イギリスの離脱は、EU存続の根幹にかかわる重大問題となった。
 イギリスはポンドを死守したのである。ユーロを使用しない以上、イギリスはユーロ圏ではない。ヨーロッパにはEU、NATO、ユーロの三重構造があり、スイスは一切加盟しておらず、トルコ、ノルウェー、アイスランドはEUに加盟しないがNATO軍には所属している。1957年にEC(ヨーロッパ共同体)が成立しているが、イギリスは当初、加盟していなかった。イギリスがECに加盟するのは1973年であり、万国博が大阪で開催された3年後である。イギリスが「原加盟国」ではないのは、フランスとの確執があるからである。
 フランスの大統領であったシャルル・ド・ゴールはイギリスとアメリカが嫌いで、チャーチルとルーズベルトと絶えず衝突していた。英仏の不仲は英仏戦争まで遡る。英仏戦争はフランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国対、ブランタジネット朝&ランカスター朝イングランド王国の戦いだった。結果、現在のフランスとイギリスの国境線が決められた。「隣国同士は仲が悪い」の典型として近代から現代まで英仏で確執が存在する。
 当時、イギリスはECの三本柱の一つ「EEC(欧州経済共同体)」にも加盟せず、それに対抗する「EFTA(欧州自由貿易連合)」を結成した。しかし、工業力の差でEFTAはEECに対抗できず。1963年経済不振からハロルド・マクミラン首相はEC加盟に乗り出した。ところが、ド・ゴール大統領の猛反対にあい潰されてしまう。イギリスはフランスとECに恥をかされた形になった。その後、1971年に「ドル・ショック」が起き、ドルと金の交換停止でドル価値が急落して、ドルを基調とする国際通貨制度「ブレトン・ウッズ体制」が崩壊した。これを「ニクソン・ショック」と言い、ドル危機が世界の大きな不安要因になった。その後、1973年に「オイル・ショック」が起きる。イスラエルによる「第4次中東戦争」の勃発で「OAPEC(アラブ石油輸出国機構)」が石油の産出量を減らし、石油価格が高騰して世界経済に多大な影響を与えた。
 ここでEU側も折れ、エドワード・ヒース首相の時、イギリスのEC加盟が実現する。しかし、2年後にイギリスではEC残留を問う国民投票があり、残留支持の結果が出た。だから、今回のイギリスのEU離脱劇は唐突に始まったわけではない。
 更にイギリスは、マーガレット・サチャー首相の頃、ECの拡大統合に否定的で、ユーロ通貨の統合にも強く反対することで、イギリスはECと一線を画す政策を展開した。昔から、イギリスには大陸の意向と違う独自路線が存在していたのである。