2017
07.10

「リッチスタン」とは何か(14)

世界情勢, 世界経済, 日本史

日本と世界の情報ブログより   2017-06-29 08:56:48
(14)幕末期最大の謎?
 徳川家康が実際に使用した鎧兜が、イギリスの「ロンドン博物館」に展示されているのは有名な話である。家康が幕府を開いた10年後、イギリス国王の使節が渡来し、イギリスと日本が国交を結んだ。1613年だが、その記念に家康自身の鎧兜が贈られ、家康の国交文書が「オックスフォード大学」に保管されている。朱印状を見れば関税は無料とある。
 17世紀のヨーロッパは、カトリック勢力とプロテスタント勢力が争っていた。先に海外に進出したのがローマ法王のお墨付きをもらったスペインとポルトガルで、スペインはフィリピンを支配して日本に宣教師を送り込んできた。そこで家康は伝道よりも交易を優先するイギリスとオランダと手を組むことになる。
 実は、関ヶ原の半年前、家康はイギリス人のウイリアム・アダムスを側近にしていた。家康と国交を結んだのがイギリスの国務大臣ロバート・セシルで、その配下が「東インド会社」のリチャード・コックスで、アダムスと同僚だった。その関係で、家康を介してカトリック教徒の弾圧を決行させ、「島原の乱」で壊滅させたとされる。さらに、当時の豊臣家は家康と対抗するため、カトリック勢力を味方につけていた。弾圧を受けた宣教師やキリシタンが逃げ込んだのが大阪城だった。そこで家康はアダムスを介してイギリス型軍艦を造り、「大坂冬の陣」に突入する。
 当時の主流だった「フランキー砲」は100mしか射程距離がなかったが、イギリスが音速を超え500mの射程距離を持つ「カルバリン砲」を提供すると、遠くから天守閣に砲弾が命中し、淀君が恐怖して停戦条約を結ばされて堀が埋め立てられたのである。
 これは当時の核兵器に匹敵する最新鋭兵器で、イギリスはこの兵器でスペインの無敵艦隊を射程距離外から壊滅させた。コックスは後に平戸の出島に商館長としてやってくるが、鎖国時代の日本はオランダとしか西洋交易していない。その理由は、イギリスがスペインとポルトガルを日本近海で襲う際、日本人の海賊を使ったり、外国に日本人の奴隷を売ったり、浪人を傭兵に使ったため、1623年に幕府からコックス宛に日本から撤退するように命じられたからである。その後、イギリスは大西洋を支配し、アメリカの太平洋支配と共に世界を二分する。
 1854年、アメリカが日本と「日米和親条約」を結ぶと、同年、イギリスも「日英和親条約」を締結する。日本はアメリカに下田と箱館の開港を認め、イギリスに長崎と箱館を開放し、治外法権・最恵国待遇などが定められた。そこにトーマス・ブレーク・グラバーが館を建て、大量の最新銃を、坂本龍馬を通して薩長に流すことになる。あまり語られてないが、海兵隊に軍艦が与えられた資金はイギリスが背後にいたからで、倒幕運動の背後にイギリスがいた事実は隠せない。
 実際、サー・アーネスト・メイソン・サトウがイギリスの外交官兼、イギリス公使館の通訳、駐日行使、駐清行使として来日し、1867年12月、徳川慶喜の「大政奉還」の詳細を探る目的と、「兵庫開港」の準備で、2等書記官アルジャーノン・ミットフォードと大坂に赴き、後藤象二郎、西郷隆盛、伊藤博文らと会談してる。
 さらにエドモンド・ハモンド外務次官が記した、ハリー・スミス・パークス行使宛の「半公信(1866年4月26日付)」に、「日本で体制の変化があるとすれば、それは日本人から端を発しているように見せかけねばならない」とある。
 これは、後の明治新政府が「日英同盟」を結ぶきっかけになるもので、アメリカとイギリスが交互に日本を利用する仕組みができていたことを意味する。これは現在から近未来においても変わらない。